- 2015-08-28 (金) 13:49
- お知らせ
某日、高円寺『円盤』にて、60年代の『ガロ』を牽引した名編集長、高野慎三さんと対談しました。
つげさんの『ねじ式』から若手新人の佐々木マキに私、それから現代美術家、赤瀬川さんへと、白土さんの『ガロ』ブームから、新たな漫画表現を模索する『ガロ』へと変貌、凄まじいブームを巻き起こしました。
手塚治虫さんが『COM』を創刊するわ、ガロというバンドが誕生するわと、学生運動の盛り上がりと共に、あの時代のマンガ・ブームの先端を走りました。
でも当時、私達のプロダクションの支援は虫プロですし、手塚さんが何故『COM』を創刊したのか判りませんでした。
『少年マガジン』の百万部突破との広告が載り、『マガジンVSガロ』の討論会が開かれても、『鉄腕アトム』は少年漫画の金字塔と思っておりましたから何故、手塚さんが青年漫画に参入して来るのか、理解に苦しみました。
しかし『鉄腕アトム』は、1968年に連載が終了していたのですね。そしてその翌年に、これまた未来のロボット『ドラえもん』の連載が始まります。
でもアトム連載終了は手塚さんの決断ですか?それとも出版社ですかね。青年漫画ジャンルが注目を集める時代とは言え、ストリー漫画の活躍舞台は少年誌で、少年漫画は子供文化を支える重要な柱でしたから、このアトムの終了と『COM』刊行は、今も釈然としません。
高野さんも私とそう違わない時期に『ガロ』へ関わったのですね。
新人として最初の『ガロ』の忘年会に出席した時の事は、今も覚えております。70年代の若者達が押し寄せた中での忘年会からすると最初の忘年会はあまりにも静かで、数年前に辞めた東映動画の狂乱の忘年会しか知らない私は、この静けさにほっとしたものです。
でも、それもつかの間の事でしたね。70年の若者が押し掛けた忘年会からは色々な作家が押し寄せるわ、80年代になるとテレビ取材も入って、この歳まで何だかんだと騒がしい日々を送る事になりました。
23歳の若手の漫画家が聞きに来ておりました。彼の漫画評論が中々シッカリしています。彼らはコミケを活動の場としているそうです。
現在、コミケは億の売り上げを出す方もいらして、税務署が一般客に混じり売り上げをチェックしているそうです。
拙著『Ph.4.5 グッピーは死なない』を手伝って頂いた20代の青年もコミケに出店している方で、年収を訊ねると4千万円位と答えていましたから、20代にしては良い稼ぎになっています。
この日、朝帰りです。私、古希を迎えました。
某日、『アックス』の総会が開かれました。
株主総会が始まりました。
今の株高を反映し皆、穏やかな顔つきで、非公開株を売った利益でどの国の土地を買うか、いっそ月、火星なども先行投資として有効なのではと、或いは常温超伝導の研究が実用化のレベルへ来て、夏場の電力不足不安が過去のものとなりそうだ等々、下々には考え及ばぬ話しに花を咲かせております。
近藤さんの満面の笑み。これが株を売り儲かった事、意外にどう説明できますか。
某テレビ局の派閥争いに勝利し、今や出世競争のトップに立つ方や、ヨーロッパで始まっております漫画原画のばら売り販売とSAZABYオークションで、モネやゴッホなどと並び、漫画原稿が高額で落札、売買される状況が現実味を帯びて来ました漫画家達が、オーガニック・ワインに舌鼓をうっております。
この方の含み笑いも、非公開、議員枠の株を売った笑みです。
中国の影響で乱高下するニューョーク市場に、ワインを飲むのを忘れてモニターに見入る島本さんと島田さんの二人です。
次は現代美術家、都築響一さんの経営する店へと向かいました。
某編集部が占領してカラオケをやっておりましたが、これが五月蠅い。
唄うと言うより怒鳴っております。出版界、ストレスが半端でない事は判りますが、ストレスの高いところに居りますと病気になりますよ。
又吉直樹さんの『火花』を二百万部へと押し上げた文春の可愛いカリスマ編集女子も居られ、今回の仕事で社長賞を頂いたとおしゃっておられました。おめでとう御座います。
この後、もう一軒、飲みに行き、この日も朝方、自宅へ戻りました。私、古希を迎えた男です。嗚呼・・。
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