仕事が忙しく、オープニングの日に伺えなかったので、正木美術評論家と一緒に改めて拝見しに千葉市美術館へ足を運びました。
正木氏の提案で、「新秋津駅」で待ち合わせです。この駅の周辺は、懐かしい店が残っています。
ほら、フィリッピン・パブなんかが、まだ在ります。「あんたお金ない。無い人ダメよ」なんて一時、さんまさんがモノマネしておりました。
スナックと名を変えておりますから今度、入ってみましょうか。パブと違いますかね。
千葉市美術館へ着きました。古い洋館を建て直しております。古カフェがブームですが、古さを新しく作るのは難しいです。
リニューアルする以前の東京ステーションホテルなど好きでしたし、赤坂プリンスも、建てた当時のレトロモダンな家具、調度品をそのままに使えば良いのにと思います。
新しいものも、いずれは古くなるのですがねー。
GUA発行の『美術ジャーナル』のポスター。田名網敬一さんのデザインです。故石子さんを始め、現在も活躍している作家の名が並んでおります。
高松次郎さんが『サンデー毎日』に描いた漫画です。絵が描かれていない処がクールです。これを見た当時「やられた―」と思いましたね。
高松さんの本業と言うのはおかしいですが、「影」を描く作家として有名でした。あの当時、漫画へも手を伸ばしていたのです。油断も隙もあったもんじぁありません、あの時代は・・・。
ハイレッド・センターのメンバーで漫画を描いて無いのは中西夏之さんだけです。原平さんも『ガロ』に『お座敷』を描いていますから、当時の『ガロ』は、漫画誌というよりアート誌のような側面がありました。
高松さんの影の作品です。壁と床の影は、違います。
貸本漫画から青年向け漫画が誕生し、青年漫画ブームが『ガロ』を先陣として若者に支持されてゆく時代ですから当時、少年漫画誌として発売部数100万部を超えた『少年マガジン』の突破記念広告が、デカデカと新聞の紙面を飾りました。横尾忠則さんにその記念として表紙のデザインをお願いするという、編集部もアートする時代です。
イベントも『マガジンVSガロ』などというトーク・ショーが組まれ、知らない内に私がガロ編集長の長井さんと列席するような告知がされたりもするのです。『ガロ』でしたら白土さんか水木さん、つげさんでしょうに、何で新人の私が出席しなければならないのか、少年漫画誌と青年漫画誌が何を語りあえば良いのか当時、さっぱり判りませんでした。
学生達が安保闘争を繰り広げておりましたが、ヘルメットに角材を持っているのが学生とは限りません。学生の分際で『帰って来たヨッパライ』を出し、ミリオンセラーの大ヒットを飛ばし、北山さんなどはテレビの番組を持つ時代になります。
この番組に、つげさんにマキさん、それに私などが出演しましたが、黙っていないのが東大生です。
大学生の雄といえば東大生だろうと、東京大学生がアートの土俵に上がりました。
駒場祭のポスターを当時、東大生でした橋本治さんが手がけ、東大生がイラストを描いたとマスコミの耳目を集め、注目の人となります。
音楽業界も二匹目のドジョウを狙って在野の若者発掘に拍車がかかり、レコード・ジャケットもアートし始めます。
私も松本さん達のファースト・アルバムのジャケットを描きましたが、『頭脳警察』も三億円事件の犯人モンタージュ写真を使い、これもアートしています。
モンタージュ似顔絵も、また多数の人の像を重ねると、意外と特徴の無い平凡な顔になってしまうのが、『Mr.Xとは何か?』です。柏原えつとむ、小泉博夫、前川欣三のお三方の顔を重ねた肖像画です。
私達は個々人個性がある様に思えますが、宇宙人から見ると、手足が四本に頭が付いた美味そうな生き物としか見えないかもしれません。
タイトルに激動の時代の芸術とありますから、お父さんからこの時代の事を聞いていた若い方は、其々、引っかかるところが多いでしょう。
当時、若者だった私も、霞んだ記憶を頼りに若い方へ、あの時代をつまらなそうに語るのではなく、どの時代も同じく表現は面白いと、伝えようと考えております。続きは次回へと致します。
『アンノウン・モータル・オーケストラ』のルーバン君のように、面白がって読んで下さい。
「掲載の1968年展会場写真は、千葉市美術館の許可を得て撮影・掲載したものです」
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